父の死
2012.03.27更新
この3月23日に父が他界した。
父は、昭和8年1月23日に生まれ、79年と2月の生涯を閉じた。
父は、生前、自身の生い立ちについて話すことはほとんどなかったが、ほのかに聞くところによると、必ずしも幸福な少年時代を送ったわけではないようであった。
そのような環境も人格形成に影響したのであろうか、私の知る父は、気まぐれで、時に激昂する扱いにくい人であった。私は、そのような父を嫌い、高校卒業後、郷里を出て東京で就職した。
一方、父の元ご同僚の方の弔辞や、親戚連中の思い出話からは、優しく、仕事熱心で、部下思いの、また、自身の激しい性格を制御しようと苦しむ父の姿もそこにあったのだった。
父は決して真面目な人間ではなかった。おそらく人並み以上に、他人に迷惑をかけ、困らせてきた人間であった。酒も煙草もたしなまなかったが、血圧が高く、晩年は、心筋梗塞、脳梗塞を発症し、長く闘病生活を送った。
危篤の連絡があったのは、22日午前中だった。すでに脳死状態との知らせだった。手の施しようがないほどの脳内出血だったそうだ。脳死状態ならば、生命維持装置をつけていれば、しばらくは持つのかと思っていたが、23日の午前中に逝った。
父に対する恨み辛みも言いたいことも山ほどあったが、父は私の恨み言を聞かぬまま逝ってしまった。父が死んでも涙は出ないだろうと思っていたが、やはり出なかった。
私は、これまで父を反面教師として、生きてきたつもりだ。その反面教師が亡くなったいま、複雑な感慨を抱き、郷里がまた少し遠くなったような寂しさを感じている自分に、いささか戸惑っているところである。
平成24年3月27日記
父は、昭和8年1月23日に生まれ、79年と2月の生涯を閉じた。
父は、生前、自身の生い立ちについて話すことはほとんどなかったが、ほのかに聞くところによると、必ずしも幸福な少年時代を送ったわけではないようであった。
そのような環境も人格形成に影響したのであろうか、私の知る父は、気まぐれで、時に激昂する扱いにくい人であった。私は、そのような父を嫌い、高校卒業後、郷里を出て東京で就職した。
一方、父の元ご同僚の方の弔辞や、親戚連中の思い出話からは、優しく、仕事熱心で、部下思いの、また、自身の激しい性格を制御しようと苦しむ父の姿もそこにあったのだった。
父は決して真面目な人間ではなかった。おそらく人並み以上に、他人に迷惑をかけ、困らせてきた人間であった。酒も煙草もたしなまなかったが、血圧が高く、晩年は、心筋梗塞、脳梗塞を発症し、長く闘病生活を送った。
危篤の連絡があったのは、22日午前中だった。すでに脳死状態との知らせだった。手の施しようがないほどの脳内出血だったそうだ。脳死状態ならば、生命維持装置をつけていれば、しばらくは持つのかと思っていたが、23日の午前中に逝った。
父に対する恨み辛みも言いたいことも山ほどあったが、父は私の恨み言を聞かぬまま逝ってしまった。父が死んでも涙は出ないだろうと思っていたが、やはり出なかった。
私は、これまで父を反面教師として、生きてきたつもりだ。その反面教師が亡くなったいま、複雑な感慨を抱き、郷里がまた少し遠くなったような寂しさを感じている自分に、いささか戸惑っているところである。
平成24年3月27日記